前のコラムへ 表紙へ もくじへ 次のコラムへ

電脳コラム 6

文字コードと漢字

1998年10月


『世捨て人の庵』

● 漢字は文化か?

 いま、文字コードが足りないと騒いでいる。

 文字コードとは、パソコン内部で一文字に割り当てられた固有の数値。日本の漢字はJISで定めた文字コードで扱う。使える文字種は第一水準、第二水準、合わせて六千数百字。使用頻度の低い漢字や旧字体、異字体などは使えない運命にある。

 古典をちょっとひも解けば、現在使われていない漢字が山ほどあり、六千数百では全然足りないことがわかる。

 ユニコードという世界共通の文字コードが採用されれば、1万2千ほどの漢字が扱えるようになるという。それでも充分ではない。学術的な分野もカバーするなら数万の漢字が必要だろう。

 ユニコードでは、中国や韓国で使われている漢字も、起源が同じであれば字形が異なっていても同じ文字コードが割り当てられるという。

 こういう事態を許せば、日本人が使う漢字がどんどん変質し、漢字文化が衰退すると危惧する文化人が多い。

 ボクは文化人ではないので、そんなことは少しも危惧していない。むしろ文字コードの制約によって常用する漢字を減らすことができれば大いに結構と思っている。

 同じ意味を表すなら簡単でやさしい表記の方が合理的でいいとボクは考える。が、そう考えない人は意外に多い。わざわざ複雑な表記を用い、それが文化だと主張するのである。

 「バラ」と書けばすむものをわざわざ「薔薇」と書く必要があるだろうか。「憂鬱」の鬱という字を見ると複雑すぎてユーウツになる。「国」をあえて旧字体の「國」と書く必要は一般の人にはない。紀伊國屋書店の関係者は例外だが。「人に“すすめる”」という場合、「勧める」「薦める」「奨める」と3種類ほどあって使い分けがわからない。どれがオススメなのか。「ほめる」は「誉める」「褒める」のどちらを使うかいつも迷う。ホメられた話ではない。

 挙げ句に漢字文化論は「美しい日本語を守ろう」とか「言葉には“ことだま”が宿っている」といった愛国心の発揚、宗教的議論になっていく。

● 漢字の功罪

 超ロングセラーの名著『知的生産の技術』(梅棹忠夫)。出版されたのは1969年、まだワープロもパソコンもない時代。この中で著者は日本文をすべてカナ表記にしようと提案している。

 ヨーロッパの言語はタイプライターで打てるのに日本語は打てない。その原因は漢字にある。タイプライターで打つことができれば、執筆速度、知的生産性は飛躍的に向上するはず。一つの解決策として、漢字かな混じり文をやめ、カナで分かち書きにすれば、カナタイプで打つことが可能になる。極めて合理的な主張である。

 パソコンで簡単に漢字が出せる現在から見れば隔世の感あり。しかしこれを前時代の主張と笑い飛ばすことはできない。いまでもキー入力で漢字変換が大きなネックになっていることに変わりはないからだ。“手書きの走り書き”より速くキー入力するのは容易ではない(手書きより遅いキー入力なんて意味がないと思うが)。その原因はひとえに漢字変換にある。漢字が正しく変換されたか確認したり、部分確定や誤変換の修正など、わずらわしい操作が必要になる。これがなくなれば、日本語入力は劇的に速くなる。

 漢字のせいで知的生産の効率がどれだけ低下しているか、ほとんど認識されていないのは不思議な話である。

 漢字を覚えることは子供にとっても大きな負担である。ボクのような漢字の天才(?)でさえ、漢字の習得には相当の時間を費やし、指にタコを作り、視力を落としている。漢字が国語教育に占める割合は大きい。その時間でもっと有意義なことを教えるべきである。

 終戦後、GHQの諮問委員会やローマ字協会というところが日本語の漢字を廃止し、かなをローマ字にする計画を推進していたという。文部省の国語審議会も漢字を廃止または制限する方向で画策していたらしい。なぜこのとき漢字を全廃しなかったかと悔やまれる。

● 必要なのは減らす努力

 文字とは言葉を表記するための記号である。文字は誰でも(外国人でも)簡単に覚えられ、使えるものであることが理想だ。文字という規格は、言葉とちがい、紙に書いたり印刷されて残るため、誰かが音頭を取って変えない限り自然に変わることはない。

 日本では平安時代、書きにくい漢字から“ひらがな”という合理的な記号を作った。これは画期的な発明である。これにより、やさしい文字でより生き生きとした文体や表現が可能となり、『古今和歌集』『源氏物語』『枕草子』といった文学が生まれた。この発明によって後世の日本人が受けた恩恵は計り知れない。

 漢字を減らさないと孫子の代まで迷惑をかける恐れが…いや、怖れかな。懼れ、畏れ…がある。文字コード問題が曲がり角に来た今こそ、漢字を減らす千載一遇のチャンスである。

 難しい漢字を使うことがナンデ文化なのか。どんな記号を使うかではない、どんな内容を盛るかが文化である。そろそろ1700年前に始まった漢字の呪縛から逃れる時期ではないか。

 第一、文字が文化だとすると、漢字は中国文化であり、ひらがなやカタカナこそ日本文化ということになる。日本人なら漢字を減らしてかなを使おう。キーボードもかな入力で打鍵しよう。ローマ字入力なんて邪道なのだ(?)。

 ボク自身、自分が書く文章にはなるべく余計な漢字、むずかしい漢字を…呼び出すのは実に簡単だが、使わないよう心がけている。それが見識だと思っている。

 「文字を制限するのは思想を制限するのと同じ」
 「漢字が減れば文学的表現が貧しくなる」

という意見も聞こえてきそうだ。文字の種類で制限を受けるような思想や表現なんて大したもんじゃない。

 一般の人が使うのは第一、第二水準、合わせて六千数百字、これで充分だろう。第三、第四水準と増す動きもあるが、一般の用途にはいらない。今でも漢字は氾濫し過ぎて、日本人は読めない字、書けない字に悩まされているのだから。

 この六千数百字の選定に関しても、必ずいろいろな方面から批判が出る。人名、地名には珍しい漢字がたくさん使われている。地名の表記を守ろうなどと言い出したらきりがない。どこかで打ち止めにすべきだ。

 その代わり痛みを伴うことは覚悟しなければならない。自分の名前の表記が変わっても恨みっこなしだ。いや、怨み、憾みか。

 全国の“斎藤”さんがある日、一斉に“斉藤”さんになるかもしれない。ボクがその立場なら画数が3つ減るので大歓迎だが。Saitoならもっといいナ。

2003年4月 加筆

前のコラムへ 表紙へ もくじへ 次のコラムへ
Copyright(C)2003. AZMA(あずま工房)
inserted by FC2 system