2年前に起きた高知の白バイ事故がひそかな話題になっている(高知×白バイ×スクールバスで検索)。
スクールバスの運転手は一、二審で敗訴。これがもし冤罪なら、警察の証拠捏造にハメられた疑獄事件となる。
これは裁判員制度がなぜ必要かを示す格好の事例だと思う。
古今東西常に、この世で最もおそろしい犯罪者は国家であるはずだ。どんな凶暴な殺人者もヤクザも警察の力には到底かなわない。警官を見かけるとだれでもドキッとするのは、国家権力のおそろしさを本能的に知っているからだろう。
市民が国家権力から人権を守るための最後の砦が裁判。その裁判官だって国家権力の一味にはちがいない。民間人が裁判に参加する最大の意味がそこにあるわけだ。
判決に民意が反映されて初めて公正な裁判が完成するというのが欧米の陪審制度の思想であり、きわめて自然な考えかたである。
しかし、日本ではおかみにたてつく習慣がないのでこの制度が根付かない。いまだに判決はおかみが下すもの、異議申し立てまかりならぬという意識。大岡越前や遠山の金さんの世界なのだ。
裁判員制度導入まであと1年。国民の理解はといえば、「法律のシロウトが裁判に参加してどうすんねん」というレベル。根底にある思想がわからずに形だけ取り入れてもうまくいかないと思う。
ならば政府はもっと国民に裁判員制度の意義を説明すべきだ? これは正論である。しかし、「国家の犯罪と闘うためにこの制度が必要なのです」、と国家が国民に説明するというのも妙な話だ。おかみにたてつく制度なのだから。
さらに、「日本人に裁判員は務まらない。人を裁くことに向かない国民なのだ。」と自虐的に言う人もいる。つまり「我々は欧米人よりバカです」と認めているわけだ。
たしかに日本人と50年付き合ってきたが、自分の意見をはっきり言える人が少ないのは事実。意見を持たぬ人がいくら審理に参加しても形骸化するのは目に見えている。
やっぱり日本人には無理かな。
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