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極力働かず趣味に生きる 反大衆・脱常識の人生。
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日食の今と昔

2010-03-10 Charles

去年は皆既日食があった。
40万円の日食ツアーで、天体ファンや野次馬がトカラ列島に押しかけた。
こういう物好きのことを、日本語では好事家と書いてコウズカという。

皆既日食が人気をよぶ理由は、その希少価値だ。
観測できるのが日本ではトカラ列島だけ、という“地域限定”。
46年ぶりで、これを見逃すと次は26年後、という“時間限定”。人によってはもう見られないのである。
こんなもの一生見られなくてもなんの不都合もないのだが、26年後と聞くとおさまらないのが野次馬根性。

日食なんてそれほどおもしろいものではない。毎日見かける夕闇が日中に起こるだけなのだから。

ちなみに庵主はその日、空を見上げることすらなかった。他に楽しいことがいっぱいあるもの。

世紀の天体ショー、日食。いにしえの人はこれをどう見ていたのだろう。
手元に『星の古記録』という古い文庫本がある。以下に、その一部を紹介しよう。

日本最古の日食の記録は、日本書紀の推古三十六年三月二日(旧暦)にある。
 「日 蝕(は)え尽きたり」
推古天皇が病に伏して4日後のことである。推古天皇は、いわずと知れた聖徳太子の母。この日食の5日後に天皇は亡くなる。

天文計算によると、これは628年4月10日の部分日食で、朝の8時18分に始まり、10時38分に終わったことがわかる。

初めて日本の都に現れた皆既日食の記録は、平安京の975年(天延3年)8月10日。

日本紀略によると、市内が真っ暗になり、鳥がみだれ飛び、星がたくさん見えたという。政府は大赦を発令、のちに改元して貞観元年となる。
政府は部分日食を予測していたが、皆既日食になったのでかなりあわてたようだ。

このころすでに日食がある程度予知できていたという点にボクは驚いた。
中国の古い歴史書から日食に周期性があることがわかっていて、日本では飛鳥時代から日食の予知を試みていたらしい。

源平合戦のさなかにも日食が起こっている。1183年11月17日、瀬戸内海で見えた金環日食。

この日食が源平盛衰記にこう書いてある。
この日、源氏と平家が瀬戸内海の水島で戦う。にわかに曇って日光が消え、夜のようになった。源氏は方角を失って退散。平家は事前に日蝕が起こることを知っていたので、これに乗じて追撃した、とある。
平家はカレンダーで日食の予報を見ていたらしい。

当時の藤原兼実の日記 『玉葉』 では、この日食が予報より4時間も遅れたのはなぜだろうと書いている。時刻まで予測していたわけだ。日食はもはやあやしむべき現象ではなかったのである。

大昔の人は日食にさぞ仰天して加持祈祷したと思いがちだが、どうも違うようだ。
むしろ現代人のほうがツアーまで組んで大騒ぎ。古代人以上に驚いているのではないか。


参考資料
『星の古記録』 斉藤国治 著 (岩波新書)


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