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  ほぼ世捨て人/1998年10月

死刑の存続を願って

  〜 刑罰の目的は仕返しにある 〜

ほぼ世捨て人もくじ


 死刑制度について考えたい。死刑って本当に必要なのか。死刑制度の疑問点を思いつくままに挙げてみよう。

(1) 犯罪抑止効果がない
 日本ではしばしば死刑が執行されているが、殺人はなくならないどころか増えている。死刑に殺人の抑止効果があるのか疑問である。
(2) 死刑は単なる復讐、仕返しである
 殺したから殺す。被害者の恨みを晴らすために加害者を殺す。これでは法の力を借りた復讐、仕返しではないか。
(3) 冤罪の可能性
 人間が裁く以上、冤罪の可能性はゼロではない。万に一つでもその可能性がある限り、死刑を行うべきではない。
(4) 死刑は法のもとの殺人である
 人間は尊厳を持った動物である。人が人を裁けるのか。法の名のもとに死刑という殺人を行っていいのか。
(5) 死刑は犯人の更生の道を閉ざす
 死刑囚は被害者やその家族にわび、ざんげの日々を送っている。深く反省している人間を死刑にする必要があるか。更生のチャンスを与えるべきである。

 以上、死刑廃止論の論拠を代弁してみた。各々に対するボクの反論はこうだ。

(1) 犯罪抑止効果がない?

 死刑を実施しても殺人はなくならない。これは当たり前である。殺人がなくなると考えるのは人間の本質に対する誤解である。殺人は人間の本能である。「食べる」、「寝る」などと同じレベルの行為だということ。殺す能力や手段があれば、誰でも人を殺す(可能性がある)ということ。男も女も子供もまんべんなく、それぞれの能力に応じて殺人を犯す。

 江戸時代に姦通罪というのがあり、これを犯せば男女とも死罪。つまり浮気をすれば死刑だった。それで浮気はなくなったか。とんでもない、そんなことでなくなるわけがない。殺されてもいいからやるのが浮気。死刑になるくらいで殺人をやめるわけがないのである。

 アメリカでは一時死刑廃止の気運が高まり(宗教的理由による)、死刑を廃止する州が増えた。しかし、殺人事件が増えたため死刑を復活させた州も多い。殺人を完全に防ぐ方法はないが、死刑はもっとも効果的な方法であることも事実。抑止効果は十分持っているのである。

(2) 死刑は単なる復讐、仕返しである?

 復讐や仕返しのどこがいけないのか。ボクが考える死刑(およびその他の刑)の目的は次の三つだ。

 (a) 仕返し(被害者と家族の恨みを晴らす)
 (b) 再犯防止(犯人が再び同じ犯罪を犯すのを防ぐ)
 (c) 見せしめ(同種の犯罪の再発を防ぐ)

 復讐、仕返しこそ死刑の最大の目的だと考える。肉親や愛する人を殺されたら誰でも「犯人を殺してやりたい」と思う。これは正常な本能である。犯人への復讐は、犯罪が無制限に横行するのを防ぐ安全弁であり、大切な権利なのだ。

 江戸時代、殺された人間の恨みを家族が晴らすことが合法的に認められ、時の政府が許可証まで出していた。仇討ち制度である。「(a)仕返し」の公認である。

 凶悪犯罪を犯した罪人は“市中引き回しの上、獄門はりつけ”。あるいは道端に首だけ出して埋め、通行人にのこぎりで首を挽かせたりした。つまり、ただ殺すのではなく、もっとも「(c)見せしめ」効果の高いやり方で刑を執行し、抑止力を高めていた。  つづき

 死刑執行で一番いけないのは、現在のように世論に配慮してこっそり執行し、それを公表しないことだ。これでは「(c)見せしめ」効果を失ってしまう。現在の死刑は最も抑止効果の少ないやり方で執行されている。

 もっとも効果的なのは公開処刑である。というと、非人道的だと驚くかもしれないが、公開処刑こそ死刑のもっとも自然なやり方である。日本の江戸時代だけでなく、西欧でも昔から公開処刑が行われていた。キリストも公開処刑、磔(はりつけ)になっている。

 さらに、現在の処刑は、どんな極悪非道な奴でももっとも苦しみの少ない首吊り(アメリカでは電気イス、薬物注入)である。「(a)仕返し」効果が不十分、これでは安楽死と大差がない。何のための死刑か。立川談志が雑誌で語っていた。針で刺すとか一寸きざみにするとか、そいつがもっとも嫌がる方法で殺すべきだと。

 死刑執行には法務大臣の承認が必要。ところが大臣の中にはハンコを押したがらない人がいるという困った問題がある。いたずらに執行を遅らせるケースが多すぎる。

 被害者の心情を考えれば、死刑は刑が確定したその日のうちに執行するのがスジだろう(“犯行”当日に執行するのが理想だ)。

(3) 冤罪の可能性?

 自白や状況証拠が裁判の決め手になった昔ならいざ知らず、現代は科学捜査による指紋やDNA鑑定、監視カメラの映像など、動かぬ物的証拠が揃うケースが多い。万に一つも冤罪の可能性のないケースはいくらでもある。

 それに誤審の可能性があるから本来の刑を適用しないというのは司法制度の自己否定であろう。

(4) 死刑は法のもとの殺人である?

 「人間は尊厳をもった動物である」というのは大いなる誤解。ケダモノ以下の人間はいくらでもいる。

 殺人も死刑も人類の発生当時からあった。最悪の犯罪が殺人まであるのに、それを罰するに死刑がないのは欠陥である。

 死刑のような残酷な刑は時代にそぐわないという。しかし、時代は変わっても人間自体は少しも変わっていない。変わらないどころか年々凶悪化している。

 社会が犯罪者にも人権があると言い出した頃から凶悪犯罪が増えた。3人殺した人間に人権はいらないだろう。

 刑法は契約である。これを犯したらこういう刑をくらうと了解した上で生きている以上、どんな残酷な刑があってもおかしくないはずだ。

(5) 死刑は犯人の更生の道を閉ざす?

 死刑囚は反省しているというが、捕まれば反省するのは当たり前(捕まらなければ反省しない)。犬だって人を噛んで捕まれば反省する。

 殺人者が更生するとかしないなんてどうでもいいことだ。3人殺して更生もないだろう。更生しなくて結構。むしろ更生させるべきじゃない。

 刑罰の最大の目的は「(a)仕返し」であるべきだ。しかし、現在の司法制度では、刑罰の第一目的が“加害者の更生”にある。犯人の人権が第一で、被害者や家族の人権、再犯防止などはどうでもよい。これは司法制度の最大のまちがいである。


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