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  ほぼ世捨て人/1998年10月

どうなんだ高校野球

  〜 ケガレなき球児という虚像 〜

ほぼ世捨て人もくじ


 スポーツ観戦、プロ野球、Jリーグ、オリンピック…、どれもさっぱり興味がない。

 中でも高校野球ってやつは何なのだろう。日本社会の堅苦しい体質をことごとく兼ね備えている。実にうっとうしい競技だ。

 暑苦しい応援合戦、視野の狭い郷土愛に押し流され、おらが県の代表校に熱狂するという構図がいたたまれない。

 勝ち進むのはだいたい西日本勢。東北や北海道の選手は雪で1年の3分の1はグランドが使えないのだから、戦う前から勝負ありだ。「全国選抜高校スキー大会」というのをやれば西日本の選手が勝てないのと同じ。しかも夏の大会はなぜか真夏の大阪、35度の炎天下で行われる。北国の高校生にとっては生まれて初めて体験する灼熱地獄、野球どころではないだろう。

 開会式で行うあの青臭い選手宣誓がいただけない。あんな大声を張り上げるのは日本だけ。恥ずかしくてとても外国人には見せられない。いつぞやオリンピックで日本人選手が選手宣誓を務めたときは「頼むから声を張り上げないでくれ」と祈ったものだ。

 アマチュアスポーツは本来楽しむものだが、高校野球には楽しさが感じられない。何か悲壮感すら漂っている。

 日本のスポーツ界はスポーツ理論を無視したシゴキ、努力、根性、気迫…、精神論に偏るのが特徴。高校野球もまさにこれ。理論を教える指導者が少ない。

 1塁ベースにヘッドスライディングするのを見せられるのはうんざりだ。一塁は駆け抜ける方が早いというのは野球理論のイロハ。そういう基本をきっちり教えるのが監督の役目ではないか。

 高校野球の特質をよく表す言葉がチームワーク。「チームは勝ってもヒーローはいない」という思想らしい。

 野球は、サッカーやバスケットと違い、打つ人、投げる人、守る人、役割分担と動作が決まっている。団体競技の中で最もチームワークを“必要としない”スポーツの一つだが、日本人にはちがったスポーツに映るらしい。高校野球は個人の技能より組織の和を偏重する日本社会の欠点をよく受け継いでいる。  つづき

 高校野球を語る上で見過ごせないのが連帯責任だ。野球部員でない生徒が不祥事を起こしてもその学校が大会出場停止になるという「連座制」である。昔、大会出場予定の野球部員が街で恐喝にあったが、出場停止を恐れておとなしく金をさし出したとかいう事件もあった。

 一人の生徒の責任を全校の生徒が負うという全体主義的体質。こんな不条理なことがなぜ教育現場で許されるのだろう。

 ピッチャーが主審から新しい球をもらうとき、いちいち帽子を取って礼をするのがいやだ。つまらない大人がそのように指導しているのだろう。プレー中に審判に礼をするスポーツが他にあるだろうか。公平性の点からも試合中の虚礼をやめさせるべきだ。

 テレビ中継ではきわどい判定のシーンでもリプレイを流さない。審判の権威をけがしてはならないということだろう。リプレイで真実を知ることがなぜいけないのか。

 「球児たちは清廉潔白でケガレなきもの」、「高校野球は神聖にして冒すべからず」というのが大衆と高野連とNHKが作り上げた虚像である。

 高校野球は学校教育の一環として行われている。ろくに勉強もせず毎日球を追いかけるのが教育的なのか。教育の一環というなら、試合の点数に選手の学業成績も加味したらどうか。「ピッチャーの××君は期末試験の数学が40点だったので、惜しくも3点を失いました」とか。

 選抜大会は春と夏、年に2回も必要か。夏の大会は最も暑い盛りの8月の日中に行う。多くの家庭がテレビをつけるため、電力需要のピークを引き上げ、発電設備を増強しなければならない。

 ケガレなき球児のせいで日本は原子力発電の依存度を高め、エネルギー問題を深刻にしているのだ。


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