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  ほぼ世捨て人/1998年11月

氾濫する敬語

  〜 敬語は序列を生む差別用語 〜

ほぼ世捨て人もくじ


 日本酒のCMで、叶和貴子が三宅裕司に「私はあなたの歌が聞きたい」という意味で「お聞きしたいわ」と言うシーンがあった。

 この敬語はおかしい。「お聞きする」は尊敬語だから、自分を敬う言い方になってしまう。謙譲語の「うかがう」を使うべきだ。言葉のプロであるコピーライターまでが敬語をまちがえる時代になったか?

 この誤用は日本中に広まった感がある。みな「ちょっとお聞きしますが」と平気で言っている。

 今、正しい敬語を使えない人が増えた。日本語が乱れ始めている。これでいいのだろうか。

 これでいいのである。敬語が乱れてきたのは必要ないからである。普段使わないから使い方をまちがえる。

 昭和天皇が崩御した時、それを報じるマスコミの敬語がまちがいだらけだというので話題になった。レポーターは普段聞いたこともないような敬語を使わなければならなかったので、随分ボロが出た。

 文法的にまちがいであっても多くの人が使えば、いずれそれが正しい用法になる。言葉とはそういうものだ。「お聞きする」もいずれまちがいではなくなるだろう。かのCMもコピーライターは誤用とわかってやっているのだろう。

 敬語とどう付き合えばいいか。一番いいのは使わないことである。「お聞きしたい」は、正しくは「うかがいたい」だが、一番いい言い方は「聞きたい」だ。

 日本語は十人の相手に対して十通りの話し方が必要になる。

 まず敬称がある。相手の名前を呼ぶところからすでに敬語との闘いが始まる。〜さん、〜くん、〜ちゃん、〜さま、〜どの、何もつかない呼び捨て…。一人称は、私、僕、俺、おいら、うち…。二人称も、あなた、君、お前、貴様、てめえ…。

 バリエーションは極めて豊富だが、この中からお前が…じゃないや、アナタが選べるのは相手との上下関係(年齢、役職、立場、親密度、性別など)にぴったり合った1つか2つ程度。しかもその判断は瞬時に的確になされなければならない。まちがえれば相手との関係に支障をきたすこともある。実に厄介な言語である。

 それだけではない。日本語の敬語表現の最も重要な部分は文末に現れる。〜です・ます、〜だよ、〜さ、〜だぜ、〜じゃん、〜や(大阪弁)…。文末をどう締めくくるかが悩みのタネだ。  つづき

 「文末に敬語表現が現れる」という性質は、単純な事実を表す文にもつきまとう。「その車は赤い」という単純な事実も言い方はたくさんある。「〜赤い」、「〜赤いです」、「〜赤いな」、「〜赤いね」、「〜赤いよ」、「〜赤でございます」…。

 英語では「The car is red.」であり、他に言いようがない。明白な事実を述べているだけだから敬語の入り込む余地がない。相手が大統領だろうが近所のガキだろうが、言い方はこれしかないので迷う必要がない。強いて敬うなら文末に sirでも付けるか。「The car is red, sir.」。

 英語の敬語表現というと、would、could を使うか、May I 〜、Can I 〜ぐらいしか思い浮かばない。かの国の敬語はシンプルでうらやましい。

 日本の社会では任意の二人の間に必ず序列が存在する。それによって言葉遣いがほぼ一義的に決まる。

 口ゲンカをする場合でもこのルールは守られる。相手の序列が自分より上ならば、どんなに不愉快な相手であっても敬語で怒る。態度で不愉快さを表しても、言葉遣いはあくまで丁寧でなければならない。“いんぎん無礼”である。このルールを一旦破ると相手との関係修復はむずかしくなる

 これらの日本語の特質にボクは40年間悩まされ、嫌気がさし、すっかり無口になってしまった(?)。ボクがアメリカ人だったらもっとおしゃべりになっていたかもしれない。

 これでも敬語は大昔よりずいぶん軽くなった。「源氏物語」などの古典を開くとそれを痛感する。当時の文語は「給ふ」「候ふ」「侍ふ」「奉る」などのオンパレード。なんと効率の悪い言語か。虚礼の極致である。

 敬語は上下関係を作り出す。同格の友達同士の関係が作りにくい。日本の縦社会を支えているのは敬語だ。

 最近の敬語の乱れはボクとしては大歓迎である。使わなければ誤用が増え、正しい使い方がわからなくなり、やがてその敬語は消滅する。こうして一つでも多くの敬語が消滅していくことを御願い奉り候ふ(?)のである。

【敬語】 相手への服従を表し、序列を明確化するために生まれた差別用語。<AZMAの辞典>

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