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  ほぼ世捨て人/1998年11月

ジャーナリストの使命

  〜 報道は人の不幸を楽しむ娯楽 〜

ほぼ世捨て人もくじ


 報道カメラマンとは、銃弾飛び交う戦地に乗り込み、命がけで生々しい映像を撮る職業。真実を伝えるという使命感がなければできない価値ある仕事である、とマスコミは言う。ホントかね。

 “報道の使命”という言葉はマスコミの常套句。報道は真実を伝えるという高尚な使命を担うものとされ、視聴者も新聞読者もそれを信じているフシがある。ボクはこういう偽善を信じない。

 報道カメラマンを始めとするジャーナリストを動かす原動力は功名心と俗物根性だというのがボクの考え。報道とは人の不幸や恥ずかしい部分をあばき出して人に見せる仕事である。シャッターを切るカメラマンの頭にあるのは真実を伝える使命感ではなく、カメラマンとしての殊勲だろう。「こりゃ傑作だ、1枚50万円で売れるぞ」。釣り師が大物を釣り上げたときのように心の中でヤッターと叫ぶ。目の前の不幸が大きいほど歓喜しているはずだ。

 戦場カメラマンは真実を伝えるためにシャッターを切っているわけではない。1枚の写真が貴重な歴史の真実を伝えることもまれにあるが、それは結果に過ぎない。

 危険な戦場で悲惨な場面を撮るのも、ダイアナ妃を張り込んでヌードを撮るのも、同じ俗物根性に根ざすものである。だから悪いというのではない。だからおもしろいのである。ただ、真実を伝える使命感とは何の関係もない。

 近年、傑作を撮った報道カメラマンにピュリツァー賞などを与えて表彰するようになったが、これはマスコミの演出であり、自画自賛である。

 報道がセンセーショナリズムに走るのは見る側が要求するからでもある。テレビのニュースは娯楽番組と区別して扱われているが、ボクに言わせればニュースも広い意味での娯楽番組である。他人の不幸を楽しむ娯楽である。スポーツの結果がはめ込まれていることからも極楽であることがわかる。  つづき

 人は不幸を楽しめるか。もちろん楽しめる。だから悲劇や戦争映画が娯楽として成り立つ。ただし、他人の不幸に限る。対岸の火事は楽しい。

 ニュースの主役は政治・経済よりやはり三面記事である。ニュースを見ると世の中の出来事がわかるというのは副産物に過ぎない。ニュースはおもしろいから見るのだ。

 正面衝突で3人即死、一家4人惨殺、爆発して肉片が散乱、銃乱射で無差別大量殺人・・・、そういう不幸が他人にとっては娯楽になり得る。人の不幸は蜜の味。幸せになるためには他人の不幸が不可欠。ニュースを見れば世界中の不幸が楽しめる。ニュースを見て幸せになろう。それが報道の第一の存在意義だろう。だからジャーナリストは戦争と台風の場所に行きたがるわけだ。

 事件が乏しいときなど埋め草的な話題を入れることがある。丹頂の群れが飛来したとか、特産のナントカに親子が舌鼓を打った・・・、こういう話題はニュースバリューとしては最低で、見ている方も退屈する。やはり刺したり爆発したり死んだりしないとだめだ。それが人間の本能である。

 真実を伝えるのが報道の使命というと高尚だが、人の不幸を探すのが報道の使命と言い換えれば、報道なんて高尚なもんじゃないことがわかる。

 真実の報道が企業論理に屈する例は無数にある。ニュース番組で、肺ガンの危険性のある素材、アスベストがいまだに“ある大手メーカー”のヘアドライヤーに使われているという話題を取り上げた。が、肝腎のメーカー名は伏せたままだった。銃弾をかいくぐってまでも真実を伝える報道がヘアドライヤーのメーカー名すら公表できないのはどういうわけ?

 真実の報道なんて所詮この程度のレベル。大上段から「報道の使命」などと偉そうなことを言いなさんな、ジャーナリスト諸君、殊に自画自賛の激しいTBS報道局。


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