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  ほぼ世捨て人/1999年1月

言い換えの論理

  〜 言い換えは真実をかくす 〜

ほぼ世捨て人もくじ


 日本では「×××」のことを「目の不自由な人」と言い、「×××」を「耳の不自由な人」、「××」を「言葉の不自由な人」と言い換えた。過去にはれっきとした正しい日本語だったのだろうが、差別用語として葬り去られた。英語ではそれぞれblind、deaf、muteというが、これは差別用語ではなく、一般に広く使われる言葉である。

 日本ではさらに「ブラインドタッチ」を「タッチタイピング」などと言い換えて悦に入る人もいる。こういう無意味な言い換えは大嫌いである。

 言い換えて中身が変わるものではない、それをあえて言い換えるには必ず理由がある。言い換えとは言葉のすり替えであり、モノの真相を隠したい、クサイものにフタをしたいという意図がそこにある。言い換えがあるところに世の中の不条理が見え隠れする。世にはびこる言い換えを集めてみた。

 頭の悪い女子高校生を「コギャル」と呼び、少女売春を「援助交際」と言い換えるのは最近の流行りだ。

 売春宿をトルコ風呂と言い換え、それをさらにソープランドと言い換えたのは有名である。もちろん名前は変わっても、昔からやっていることはほぼ同じらしいが。

 戦後の日本では日本軍を「自衛隊」と言い換えた。現在、日本には軍隊が存在しないことになっている(!?)のだから驚きだ。軍隊を持ってはいけないと憲法で規定している(と解釈する人がいる)からだ。ただし、たけし軍団や石原軍団などは規制されていないようだ。

 毎年何兆円という軍事予算がちゃんと使われていながら「軍隊はない」と主張する国なんて信用できない。意地を張るのはやめて、ちゃんと憲法を改正して正式に軍隊所有を認めるべきだ。軍隊を持たない先進国なんてどこにもないのだから。

 野球の勝敗に金を賭ければ野球賭博、サッカーの勝敗に賭ければサッカー賭博だが、さすがに「サッカー賭博解禁」とは言えないので、これを「サッカーくじ」と言い換えた。勝ち負けを予想して券を買うのだから“くじ”などではない、れっきとした賭博である。昔、野球賭博で芸能人が何人か逮捕されたことがあるが、サッカーなら許されるのか。

 競輪、競馬、パチンコ…みんな博打(バクチ)だが、合法であることを示すために英語で「ギャンブル」と言い換えた。

 戦時中は敵性言語の英語を何でも日本語に言い換えた。野球で「ストライク」を「よし」と言い換えたのは有名だが、現在はすっかり事情が逆転し、日本語をなんでも英語に言い換えてしまう時代だ。

 集合住宅を「マンション」「ハイツ」などと言ってはばからない。「ペンション」は民宿や旅館と法的にどう違うのかボクは知らない。

 混血児を「ハーフ」と言い換えた。ハーフはいまや尊敬語の感がある。梅宮辰夫がテレビで「うちの女房は昔でいう混血児で…」と言ったら、CM明けに司会者が「“混血児”は許されない言葉でした」と詫びを入れていたが、こういうのは笑ってしまう。ハーフがよくて混血児がいけないというのだ。単に英語にしただけじゃないか。  つづき

 「〜の人」というおかしな言い方も最近テレビでよく聞く。“凹無”事件では、番組の司会者は「信者は…」と言わず「信者の人は…」と言っていた。東京都で問題になったホームレスのことを「ホームレスの人」と呼んでいた。それで表現を和らげたつもりなのだろうが、なぜやわらげる必要がある? ただの「信者」「ホームレス」でどこがいけないのか。この分だと「信者」や「ホームレス」も差別用語として葬り去られるかもしれないな。

 求人雑誌は言い換えのホームラン王です。アルバイト情報誌などはこっけいである。配達員は「デリバリースタッフ」、皿洗いは「キッチンスタッフ」、掃除夫は「クリーニングスタッフ」とくる。なんでも英語にすりゃいいってもんだ。

 ふと思い出したが、テレビで「○○○スタッフ」という人材派遣会社のCMを見かける。社名は日本語にすると「臨時雇いの職員」という意味だが、CMの中で金髪のキャリアウーマンが誇らしげにこの社名を連呼するところが苦笑させられる。

 後進国などと呼んではいけない、「発展途上国」と呼びなさい。

 主体性の欠如、優柔不断といった欠点を「協調性」と言い換えて押し付けるのは日本の会社の得意とするところだ。

 仕事上でのお中元・お歳暮、接待、謝礼…、いずれも「賄賂」を言い換えたものである。贈り主が特別な(不正な)便宜を図ってもらうために支払う手数料のことである。贈り主が得をするならば、贈らない人は必ず損をするのが世の道理だから、どれもれっきとした不正行為である。日本ではこれらが「お礼」という美名のもとにまかり通ってきた。やっと最近「接待」あたりから少しずつ問題視されるようになってきたのは喜ばしいことだ。

 公営の高利貸しに「銀行」という名前を付けた。庶民から低利で(現在はほとんどタダ同然で)金を預かり、別の人に高い利息で貸す、基本はまさに昔の高利貸しと変わらない。

 ポルノやワイセツを「芸術」と言い換える。この言い換えは昔からあり、この手で成功したのが映画『エマニエル夫人』だ。まぎれもないポルノだが、芸術だと言って一般向けに公開して大ヒット。『失楽園』しかり。見に行く方も「ポルノじゃないわ、芸術よ」という大義名分があるから恥ずかしくない。芸術だと言われりゃ警察もうかつに手が出せなくなる。

 政治家の答弁はほとんどが言い換えの羅列だ。最近よく使われるのは銀行救済を「預金者保護」と言い換える手だ。

 政治家へのワイロを「政治献金」と言い換えてバカな国民をあざむいてきた。最近はこの「政治献金」の評判がよろしくない。みんな政治献金が諸悪の根元であることに遅まきながら気づき始めたからだ。

 税金を「公的資金」と言い換えるのはもはや常套手段となった。「税金で穴埋めする」とは言わず、「公的資金を投入する」というふうに使う。

 何が「公的資金」だ。こんなに税金がムダ遣いされるなら、税金を払う気力もなくなるというものだ。でも脱税とは言わないでほしい。「公的資金の提供を制限する」と言ってほしい。


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