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  ほぼ世捨て人/1999年1月

アパート残酷物語(1)

  〜 悲惨なボロアパート遍歴 〜

ほぼ世捨て人もくじ


 アパート暮らしは、大学に入った18歳に始まる。学生時代は3つのアパートを転々とした。どこも壁がペラペラで遮音が悪かった。音楽とオーディオが好きなボクだが、大きな音が出せないので常に不満があった。

 卒業後、就職先も決めぬまま東京に出た。仕事を探さねばならないが、その前に住むアパートを確保しなければならない。

 新宿の大手不動産屋へ行ったら、「無職の方にはお貸しできませんので、お仕事を決めてからいらしてください」とにべもなく断られた。

 仕事に就かなければアパートを借りられないとは知らなかった。これは不条理な話である。浮浪者じゃあるまいし、寝る場所がないのに仕事を探すことはできない。まず住む場所を確保してから仕事を探すのが自然の順序である。仕事のあるなしと家賃を払う払わないは別の問題だ。

 別の不動産屋でなんとか木造アパートを借りることができた。練馬のボロアパートで、4畳半、フロなし、トイレ共同。アパートの入り口でクツを脱いでから各部屋に入る。ここの特徴は、壁が極薄だということ。隣人のテレビの音は言うに及ばず、ハシと茶碗の音、ハンガーを壁にかける音…すべて筒抜けという悲惨なところだった。プライバシーがまるでない。当然、音楽はスピーカーで聞けないからヘッドホンだ。おまけに歩くとアパート全体がぐらぐら揺れた。こんな危険な建造物に月2万円も取られた。

 ある日停電になり、なかなか復旧しない。翌日になってもまだ電気が来ない。近所を見ると明かりがついているではないか。東京電力に電話したら作業員が来て、ブレーカーが落ちていることが判明。が、ボクの部屋の配電盤が階下の部屋の玄関内にあるというとんでもない作りだった。その後も2、3度ブレーカーが落ちて、そのたびに階下の女に「すいません」といってスイッチを上げてもらうというありさまだった。  つづき

 隣の部屋に若い女が越してきた。女は何をトチ狂ったか、夜中や早朝にラジカセを大音量でかけることがあった。仏のボクも何度か壁を叩いて怒鳴った。朝6時前からガンガン鳴らして、向かいのアパート(!)の住人がたまらず女の部屋に怒鳴り込んだこともあった。女は3ヵ月ほどで出ていった。

 入居して2年、大家からアパートを改修するから出ていってくれと言われた。一方的に何月までに部屋を空けてくれという。敷金も返さないつもりらしい。こっちは仕事が忙しくて法的に争う金も暇もなかったので、泣き寝入りするしかなかった。賃貸契約書の特約事項に「壁にシールを貼らないこと」「クギを打たないこと」などと事細かく書いたあったのを思い出すと、ふざけるなと言いたくなった。

 次に借りたのは相模原の木造アパート。6畳一間、フロなし。少しでも安くと思えば、どうしても都心から離れて行くのが宿命。新宿の会社まで超満員の電車に詰め込まれて1時間半近くかかった。家賃は確か3万円。

 アパートは小田急の線路沿いにあったので、電車が通るたびに震度2ぐらいの地震に見舞われた。一日数十回揺れる。そして外壁の薄さ。ペラペラの規格品の新建材で、壁を叩くとアパート全体に共鳴する。ここでもスピーカーで音楽は聴けなかった。

 部屋は2階だった。入居した翌日だったか、夜、階下の住人で30歳ぐらいの人相の悪い男が来て、「歩く音がうるせえ」と文句を言った。歩くなというのである。ボクは考え事をしながら部屋の中を歩き回る癖があった。部屋の中を歩くこともままならない、これが日本のアパート事情である。

 ここの生活は最初からケチがついた上、通勤時間の長さもこたえた。会社への往復だけで疲れ果てる。1年半ほどでこのいまいましいアパートを出ることにした。

 もう木造アパートは勘弁ならん。次は絶対にマンションに住もうと決意した。

<続く>

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