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  ほぼ世捨て人/1999年1月

試験に合格するコツ

  〜 受かる人だけ合格する原則 〜

ほぼ世捨て人もくじ


 人間、生きている間に何度か大事な試験がある。絶対に落とせない節目の試験、ボクの場合は高校入試、大学入試、英検2級、就職試験といったところ。自慢じゃないが、どれも一発合格。大事な試験では落ちたことがない。挫折を知らないやつなのだ。

 別に頭がいいわけじゃない。試験に絶対落ちないコツがあるのだ。
  「受からない試験は受けないこと」
これだ。冗談で言っているのではない。これにはいろいろな意味が含まれている。合否を決定する試験は合格しなければ受ける意味はない。

 およそ学力試験というやつは受ける前に合格するかしないかが決まっているものだ。自分の実力が正しく評価できれば、受ける前に合否がわかるはず。わからない場合は落ちると考えてよい。実力が足りない場合は受けても落ちるのだから、受けるだけムダ。受かりそうにない資格試験は“棄権”し、もっと勉強してから再度挑戦すればよい。単純な理屈だが、なぜかほとんど理解されていないようだ。

 試験の倍率というものは誤解されている。倍率の高い試験ほど合格が難しいとされている。が、入試や資格試験の場合、原則として倍率と難易度は無関係だ。難易度は別の要素で決まっている。倍率が何倍だろうが、合格する実力をつけた者はまちがいなく合格し、合格ラインに達しない者はまず落ちる。学力試験は他人との競争ではない。番狂わせはめったに起こらないのである。

 「試験倍率5倍」とは、「合格する実力がないのに受験した人が定員の4倍いた」という意味であり、それ以上の意味はない。運不運が左右するのはごく一部の合格ラインすれすれの人だけだ。

 学力試験は宝くじやギャンブルとは違う。合格率1%の試験でも合格するだけの実力をつけてから受ければ100%合格する。実力が足りないと思ったら受けないこと。これ試験の極意である。

 大学受験。ボクも人並みに受験戦争に参加している。何のために進学したかというと、学歴不足で職業選択の自由が制限されるのがイヤだったから。もっとも世捨て人になるなら学歴は必要なかったが。これが表向きの理由だが、本音は大学で遊びたかったから。遊ぶために大学へ行くのだから、浪人しては1年まるごと灰色になってしまう。何がなんでも現役合格にこだわった。

 入試の願書を出したのは2校。第一志望の国立1期校と滑り止めの国立2期校だ(当時は試験日によって1期校、2期校と分かれていた。共通一次試験の始まる前年だったと記憶する)。授業料の高い私立大学に行くつもりはなかったので、私立は1校も受けていない。

 で、本命の1期校に合格したので、滑り止めは受ける必要がなくなった。1校だけ受けて1校合格。たいへん効率がよい。これが本来の受験のやり方なのである。

 ムダな試験をたくさん受ける受験生が多いが、これがボクにはわからない。合格・不合格は運次第、数打ちゃ当たるという発想なのだろう。試験というものをまったく誤解している。  つづき

 当時の入試は、私立大学が2月頃、国立1期は3月上旬、国立2期と公立は3月中旬頃行われた。私立の試験日は学校によってバラバラなので複数受験ができる。多くの受験生は私立大学をいくつも受験した。第一志望が国公立大学であっても私立を5校、6校受けるのが普通だった。ボクの見聞から言って、私立をたくさん受ける学生ほどよく落ちた。10校受けて全滅した者もいた。

 翌月に国公立試験を控えた追い込みの2月。一番大切なこの時期に家を空けて上京し、慣れない都会で緊張の試験。調子を崩したり、カゼを引いたり、挙げ句に不合格通知をもらって無用なショックを受ける。ボクに言わせればもっともまずいやり方である。そんな暇があったら志望校を絞り込み、家で心穏やかに勉強に専念していた方が得策である。

 ちなみにボクが合格した学科の倍率は7.5倍ぐらい。誰でも入れる(?)青山学院大学は20倍。ボクなど逆立ちしても受からない東大の理類は確か3倍ぐらいだった。何度も言うが、倍率と難易度は全然関係ないのだ。

 受験生は自分が受かったかどうか合格通知を受け取る前にわかるはずだ。それでも合格掲示板に自分の受験番号を見つければ涙を流したり、胴上げしたりするものである。まるで「落ちると思っていたのに合格した」かのように喜ぶ。こういうシーンを見た後輩は「合否は発表までわからないもの」という誤った印象を受けてしまう。試験に対する根本的な勘違いが始まる。

 受験生活。すべてが受験勉強を中心に回った1年余りの生活だった。合格通知の電報が届いた時の開放感は今でも覚えている。合格は確信していたが、結果を見る前に喜べる人間はいない。長い間どんより立ち込めていた雲が一瞬にして晴れた。机の上に積み上げられた教科書も参考書ももう二度と開かずにすむのだ。外に出たらそのまま空に舞い上がってしまいそうな気分だった。

 そんなに苦労した受験勉強だが、社会に出て何か役に立ったか。受験勉強で得られる知識など何一つ役には立たない。受験戦争を正当化する気ははない。受験など経験しないに超したことはない。ただ強いて言えば、若いうちに“自分と闘って勝つ”経験ができたこと、これが受験勉強の最大の成果か。

 人生でもっとも多感で遊びたい時期に、自分で立てた計画に従い、おのれを律し、雑念や怠け心と闘い、ひたすら机に向かう。いくら怠けても誰からも叱られない。受験勉強を一種の修行と考えるなら、これほど厳しい修行はない。

 「学生時代は甘い。社会に出ると厳しい。」という人が多いが、逆だと思う。ボクは社会に出てから受験ほど厳しい試練を経験したことがない。社会なんて実に甘いものだ。仕事は主に他人との闘いであり、自分自身と闘う必要はほとんどない。

 努力が結果に直結するのは学力試験のいいところ。試験に受かる方法。よく勉強して合格する実力をつけてから受けること。結局これしかない。この王道を踏み外して姑息な道を選ぶ人は落ちる。


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