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  ほぼ世捨て人/1999年1月

役に立たないレコード評論

  〜 音楽評論は無用の長物 〜

ほぼ世捨て人もくじ


 昔から音楽とオーディオが好きで、二十歳ぐらいの頃はレコードを毎月数枚買っていた。なんとぜいたくなと思うが、当時はアルバイトと仕送りで結構自由になるお金があった。学生だから貯蓄する必要もない。ボクの人生でもっとも金回りのよかった時期である。

 ジャンルはフュージョン(クロスオーバーともいい、ジャズとポップスの中間)が多かった。しかし本当に気に入ったレコード、買ってよかったと思えるアルバムはせいぜい10枚に1枚で、残り9枚は買わなきゃよかったというものだ。

 レコードはどんどん増えるが愛聴盤はそれほど増えず、四百枚を越えた頃からばかばかしくなり、なるべく買わないことにした。それでも卒業してアパートを引き払う頃には大量の燃えないゴミができた。

 CD時代に入ってからも極力買い控え、どうしても欲しいアルバム、素性のわかったアーティストのアルバムだけを買うようにした。それでも相変わらず当たりの確率は低い。現在、CDラックに並んでいるCDはわずか60枚程度。“珠玉の厳選盤”と言いたいところだが、本当に買う価値があったと思うアルバムは10枚ほど。残りは何かの縁があってここにたどり着いたとしか言いようのないものである。

 愛聴盤にしても気に入った曲は10曲のうち1曲、残り9曲はイマイチということも多い。音楽マニア、オーディオマニア、深くこだわる人ほど同じような状況ではなかろうか。

 レコードやCDはたいへん効率の悪い買い物である。最大の原因は中身を聞いてから買うことができないという点にある。本なら内容をざっと見ることができる。ある程度立ち読みもできる。レコードは中身をざっとでも聞かせてもらえない。最近は大手レコード店で主な新譜をヘッドホンで流しているところもあるが、まだ一般的ではないし、第一そんなメジャーなアルバムばかり買うわけではない。

 CDは1枚三千円前後、決して安い買い物ではない。10枚に1枚しか当たりが出ないとすれば、1枚を3万円で買うのと同じである。

 海外アーティストのレコードを買うと、決まって歌詞カードの裏に音楽評論家の解説が細かい字でびっしり書かれている。アルバムのコンセプトだの、レコーディング時の意気込みだの、客観性のない表現で出来映えを絶賛しまくる。また、そのアーティストが結婚したとか離婚したとか、解散の噂とか、近況や私生活について触れているものも多い。

 こういう駄文はいらない。ボクの場合、どんなに気に入った音楽であっても、そのアーティスト自体に対する興味や信仰心はまったくない。肝腎なのはレコードから出てくる音楽そのもの。こんな解説文に原稿料をかけるのはやめて、その分レコード代を安くしてほしいものだ。

 つまらないアルバムにムダなお金を使いたくない。買う前にそのアルバムの内容を少しでも知りたい。そこで音楽雑誌を買い、アルバムの紹介記事を読むことになる。

 知りたい情報は収録曲の曲調や編成などの客観的な描写である。スローで静かな曲か、アップテンポで元気がいいのか、明るいのか暗いのか、メロディは単調か味わい深いか、編成はサックスソロ主体でピアノがからむ、といった具合。自分の好みに照らしてそのアルバムを買うべきかどうかの判断材料が欲しいのである。  つづき

 が、なぜかそういう客観的な評論は見当たらない。主観的、芸術的表現のオンパレード。個人的な好みと感動の披瀝(ひれき)であり、ひたすら絶賛するだけの記事がほとんどだ。ちょっと作文してみるとこんな調子だ。

 芸術の域に達したとも言える右手が奏でるリリカルなメロディラインが一層彼らしい雰囲気を醸し出し…

 熱気あふれるコラボレーションの中からこそ生まれる比類なきサウンドは、いかなる妥協をも許さぬ魂の叫びから生まれ…

といったありさまだ。一体何が言いたいのかさっぱりわからない。要するにどういうアルバムなんだ? だいたいリリカルって何だ? 読者はもちろんのこと、書いた本人も言いたいことが正確にわかっているのか大いに疑問である。

 こういう悪文に読者がクレームをつけないところをみると、読む方もそのアーティストにほれ込み、心酔し、盲目的に崇拝しているのだろう。そしてレコード評論とはそういうファンのために書かれるものである。ファンは解説を読まずともそのアルバムを買うだろう。その上で評論家の絶賛記事を読んで確認し、買ってよかったと満足する。テレビでナイターの試合を見て、翌日の新聞解説を読んで再確認するようなものだ。

 そのアーティストを知らない第三者がアルバムの内容を客観的に判断するために、レコード評論はなんら有効な情報を提供しないのである。

 学生の頃、アメリカのあるフュージョングループの曲が気に入っていた。ある音楽雑誌でそのグループのニューアルバム紹介記事を読んだ。それによると、初の女性ボーカル曲が入っていると書いてある。じきにそのアルバムを買ったら、ボーカルなど一曲も入っていなかった。強いて言えば、1曲だけごく一部に女性コーラスがハモっているだけだ。女性コーラスが入るのは過去のアルバムにもあり、初めてのことではない。

 しかし女性ボーカルに触れた記事はその雑誌だけではなかった。他誌にも女性ボーカル云々と書いた記事が載っているのを見た。なぜこんなまちがった情報が音楽雑誌に載るのか。ここでやっと気づいた。この評論家たちはアルバムを聴いていないのだと。

 紹介記事はレコードが発売される前に書かなければならない。まだジャケット写真すらできていないうちに書くこともある。アメリカで先行発売されていれば聴くこともできようが、日米同時発売の場合など、原稿を書く時点でデモテープが入手できない可能性は充分あり得る。それでも紹介記事は書かなければならない。ではどうするか。レコード会社などから配布される資料を参考にして書くしかない。おそらくその資料の中に「初の女性ボーカル曲が入っている」という誤った情報が書かれていたのではないか。

 評論家は聴いてもいないアルバムでも恥ずかし気もなく「今までで一番の出来」とか「乗りのいいリズムに体が踊り出した」などと書くのであろう。随分読者をバカにした話である。いや、読者は盲目的な信者だからこれでいいのか。この一件があってから、音楽雑誌を読んでレコード選びをするのは一切やめた。

 レコード選びに必要なのは客観的な評論だ。退屈な曲を退屈だと書く評論でなければ読む価値はない。音楽評論家はほめることしか能がない。というよりほめることでお金をもらっている職業なのだろう。


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