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  ほぼ世捨て人/1999年1月

サイクリングは目的地のない旅

  〜 ぶらりツーリング術 〜

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 ボクの趣味の一つに自転車ツーリング、いわゆるサイクリングがある。

 車全盛の今どき、サイクリングをするような趣味人や物好きは少ない。休日は何をしているのかと聞かれて「サイクリング」と答えるが、サイクリングという言葉の意味すら理解されないことがある。サイクリストと言えるような人も少なくなった。今この文章を打っている携帯ワープロは「さいくりすと」と打つと「細工リスト」と変換される。そのくらいサイクリングはマイナーな趣味である。

 自転車でツーリングするというと、たいていの人はそんな疲れることは嫌だという。今はそういう時代なのだ。現代人の体力の衰えは相当なもので、クルマの利用が広まったこと、体力を使わない仕事が増えたことが影響している。特に今の若い連中は(という言い方は好きじゃないが)楽じゃないことは一切やらない。「登山」という遊びも似たような運命で、山登りしている人はおじさん、おばさん以上の年齢ばかりになってしまった。「クルマやバイクの方がずっと楽だよ、なんでそんな疲れることをするのさ」とくる。

 まあ何を言ってもムダだとは思うが、一応反論させてもらえば、「楽だ」ということと「楽しい」こととは違う。楽なことは必ずしも楽しくはないし、楽しいことは必ずしも楽ではない。「少々苦しいけど楽しい」ことが世の中にはたくさんある。楽なことばかり追い求めていると、本当に楽しいことを見逃してしまうぞ。

 苦しい峠道を登った後に味わう景色だからこそ、自然の美しさ、山の雄大さも骨身に染みるのだ。自分の力で獲得した景色はそう簡単に忘れられるものではない。ただアクセルを踏むだけで自動的に上がってきた人間にとって、頂上の景色は家で見る絵葉書と大差ないだろう。

 ツーリングで自転車に乗るのは移動の手段としてではない。移動の手段なら車、バイク、電車といった乗り物の方が圧倒的に速くて安全だ。

 自転車ツーリングは「寄り道できる」「道草を食うことができる」点にそのよさがある。道路沿いに静かな神社があったらちょっと境内に入ってみる、たまたま感じのいい公園を見つけたら寄ってみる。珍しい建物や目を引く大木があったら立ち止まって眺めたり写真を撮ったりする。風情のある路地があったらちょっと入ってみる…。こういうことは自転車の独壇場である。

 東京都内をしばしばツーリングするが、極力幹線道路など走らず、路地道を探検することにしている。新宿通りの一本隣の静かな路地を走っていたら三味線の音が聞こえてきてびっくりしたことがある。新宿のど真ん中である。路地道を走っているとこういう思わぬ発見が多い。

 クルマの場合、珍しい景色を見つけても急に止まるわけにはいかない。後続車の心配もあるし、路上駐車禁止だったりもする。ちょっと寄ってみたい場所を見つけてもクルマを置く場所がないことが多い。遊歩道や公園に乗り入れることもできない。ドライブではこういう途中のおいしい見どころを全部すっ飛ばしてしまうことになる。  つづき

 サイクリングに目的地はあってないようなものである。「散歩」に目的地がないのと同じである。どこかの場所へ行くのが目的ではない。自転車で走りながら途中の景色を眺める、この“過程”自体が目的なのである。

 ボクのツーリングは特に“目的地がない”ことを信条としている。たとえば、一応○○公園まで、と行き先を決める。しかし、コース取りはできるだけグニャグニゃとあちこち寄り道するように選ぶ。目的地に直行しないことを以って尊しとする。この場合、○○公園は「走行コースの中で一番家から遠い地点」という程度の意味合いしか持たない。目的はあくまでもその途中、“過程”にある。たとえ時間の関係で○○公園まで到達できずに戻ったとしても、ツーリングの目的は充分達せられるのである。言っている意味、わかるかなぁ。わかんねえだろうなぁ。

 日本人は過程を楽しむということを知らない人種である。サイクリングをしていると、よく「どこまで行くのですか」と聞かれる。こういう質問には答えようがない。本当に「目的地がない」からである。歩道で持参した地図を見ながらどこを走ってやろうかとあれこれ迷っていると、通りかかった人などが「どこへ行くんですか」と声をかけてくる。親切心からのことなのだが、たいへん余計なお世話でもある。ボクは“道に迷っている”のではない、“道を選んでいる”のである。

 丹沢の山奥の林道を自転車でツーリングしていた時のこと。道は未舗装で荒れ放題、カーブを繰り返しながら深山幽谷へ続いている。こういう荒れた林道ほど、周囲の景色が荒々しくて抜群なのである。随分走ったところで、バイクに乗ったおじいさんに声をかけられた。「どこまで行くんかね。この先は行き止まりだよ。○○へ行きたいんなら△△から抜ける道があるよ」と“親切に”教えてくれた。こういうのは本当に困る。行き止まりであることぐらい百も承知である。どこかへ行く目的で走っているのではないのだから、行き止まりへ向かって走っていても不思議じゃないのだが、このおじいさんに「目的地のない旅」について説明しようとすると絶望的な気分になってしまうので、「ああ、そうですか、そりゃどうも」と言葉を濁してしまうのである。

 日本人に「ツーリングは遊びであること」「目的地がないこと」を説明するのは大変むずかしい。日本人は目的直行型の民族である。人生の目標というものがまずあり、たとえばそれは出世だったり、結婚して子供を作って、家を建て、貯金をいくら貯める…、といったことであるが、日本人はその目標に向かってただひらすらわき目もふらずに進んでいくだけである。人生の途中に起こるさまざまなことはすべて余計なことであり、「その過程を楽しむ」という発想はまったくないようである。目的地までの途中にどういう景色が見えようが、目的に添わないものには関心を示さない、そういう民族であるらしい。日本人にとっては働くこと(子供なら勉強すること)だけが目標に沿ったことであり、それ以外の「余暇」は文字通り“余った暇”でしかない。こういう発想にはまったくついていけない。

 目的地や目標までの過程を楽しむこと、これがボク流のライフスタイルでもある。サイクリングはそういう生き方にぴったりの遊びである。


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