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  ほぼ世捨て人/1999年2月

理想の死にざま

  〜 無意味な延命治療 〜

ほぼ世捨て人もくじ


 野生の動物に老後はないという。体力が衰えてエサが獲れなくなった時点で死ぬことになるからだ。象は死期を悟ると死に場所を求めて群れから離れ、一頭でひっそり死ぬという。野良犬、野良猫も同様、路上や道端で死んでいる姿をまず見かけない。人が入って来ない線路脇の土手や草むらで命を終えているのだろう。動物は仲間に屍(しかばね)をさらさないという心得があるかのようだ。

 人の場合、どういう最期を迎えたいかというと、大抵の人は家族に看取られて病院で…という。人間だけがなぜ屍をさらし、人前で死にたがるのだろう。野生でなくなったからか。

 ボクが望む死に方はかなりちがう。老後は子供や親族など他人の世話になるのは嫌いだし、老人ホームはボクの流儀じゃないので、最後まで一人暮らしだろう。田舎の一軒家で自分の世話は自分でやり、最期はだれにも知られず、ある日ポックリと死にたい。姿が見えないので近くの知人が見に来たら死んでいた。死後一週間たっていた。そんな死に方がボクの理想である。それが最も自然な死に方だからだ。

 最も不自然なのは、病院のベッドの上でチューブや電極を付けられ、家族らの面前で死ぬことである。

 死ぬところを人に見せたくない。死ぬときぐらいは一人で自由にさせてほしい。ボクは野生に近いのかもしれない。

 しかし、老人が一人で死ぬと世間の受け取り方はちがう。死んでいるのが見つかると、テレビはこんな論調で取り上げる。「一人暮らしの老人が都会の一室で孤独の死」。

 一人で死ぬことを現代の老人問題の象徴としか見ることができない。「老人の一人暮らし=孤独でわびしい」、「誰にも知られずに死ぬ=不幸な死に方」という認識である。

 老人の“孤独死”を取り上げた番組で、司会者がこんなまとめ方をした。「年をとったら家族と一緒に暮らすのが自然の姿なのに、老人が一人で暮らすなんて尋常なことじゃないですよね」。こういう紋切り型の発想にはため息しか出ない。

 人生好きなように生きられても、最期はなかなか好きなようには死ねない。倒れた時に人がいれば、否応なしに病院に担ぎ込まれる。病人を病院に連れて行かなければ訴えられてしまうからだ。その結果、最期は医療制度や司法制度に管理されることになる。  つづき

 延命治療はどこまでやればいいのだろうか。ここまではやる価値があるが、これ以上やっても意味がない、だれもそういう目安を持たないから無制限にやるのが一般的だ。

 今の医療は、寿命が尽きて死ぬしかない老人をただでは死なせない。棺桶に入る前に入院させ、薬漬けにし、コンピュータをつなぎ、最後の1秒まで治療費を絞り取る仕組みになっている。病院は儲かるし、患者もできるだけの手当てを受けたという満足感があるし(意識があればの話だが)、家族の負担もかなりの部分が保険でまかなわれる。三方丸く治まり、誰も文句を言わない。

 「いかに死ぬか」という問題は、「いかに生きるか」という問いと表裏一体である。世間では生きることばかり考えて、死に方を語る人がいない。死に方のビジョンがないから、わずかな余命の生き方まで医者の言いなりになる。

 医者は牧師でも坊主でもない。治療はしてくれるが、人生最期の生き方までは教えてくれない。それを考えるのが本人の仕事だ。余命半年とわかったら、退院して残り少ない時間でやり残したことをやる、というのも意味のある選択だ。人生最期の過ごし方は医者が何と言おうと自分で決めるべきだ。

 延命治療を拒否するとなると、安楽死、尊厳死という問題にたどりつく。が、安楽死、尊厳死という言葉自体がよくない。これを自殺と取る人もいるが、何をか言わんやだ。自殺なんかじゃない。人生最後の締めくくり方の話なのである。

 永遠に生き続けたいと思うのが人間の欲望だが、どんなに素晴らしい人生にも必ず終わりがくる。どういうふうに最期を迎えるかは本人の生き方次第。死にざまは生きざまである。

 ボクの最高の死に方は“一人でポックリ”だが、次点として、山菜取りに山に入って遭難、というのも悪くない。人に迷惑をかける死に方ではあるが、世間への最後の復讐と考えればいいか。

 一番いやな死に方は交通事故死だ。ウッカリ者の不注意で戦わずしてダメージを受け、病院で死ぬことになるからだ。今のボクはこの死に方が一番確率が高い。


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