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  ほぼ世捨て人/1999年5月

盗聴法なんてこわくない

  〜 プライバシーって何だ? 〜

ほぼ世捨て人もくじ


 先日、通信傍受法案、いわゆる“盗聴法案”が満足に審議されないまま法務委員会で可決された。

 これで警察は捜査の名目で市民や団体の電話を盗聴することができる。国民のプライバシーは侵害され、多くの結社が警察に監視されることになる。これでいいのか。これでいいのだ。ボクは実はこの法律に賛成である。

 先進国で警察が盗聴できないのは日本ぐらいのものだろう。いまや高性能な盗聴器が誰でも入手できるし、入手すること自体は違法ではない。その道のプロがアンテナを持って探せば盗聴電波がいくつも飛び込んでくる。探偵はもちろん、個人でも盗聴しようと思えば簡単にできる時代。市民を守る警察だけが丸腰というわけにはいかないだろう。むしろ遅きに失した感あり、何を今さらである。

 組織犯罪を捜査する上で盗聴は必要不可欠になってきた。それを痛感したのはオウム事件だった。当時、オウムは警察署や反対派の民家に盗聴器を仕掛けていた。警察の捜査情報は筒抜けだった。オウムが盗聴器を使っているのに警察は使っちゃいけないというのは笑い話である。オウムと警察の戦いは情報戦そのものだった。オウムは警察の強制捜査を事前に察知し、これを妨害する目的で地下鉄サリン事件を起こした。警察がオウムを逆盗聴していればあの事件は防げたかもしれない。

 マスコミは盗聴法に猛反対である。記者は取材の過程で警察も知らない情報を入手したり、犯人と接触したりすることがある。そういう情報が盗聴によって捜査陣に漏れると容疑者への取材活動に支障をきたすと主張する。しかし、それで犯人が捕まるなら結構なことではないか。「犯人が捕まったら取材ができなくなる」というのは理不尽な話だ。犯人逮捕と取材とどっちが大事なんだ。

 マスコミは盗聴法の恐ろしさを世間に訴えることに懸命である。マスコミによる世論操作である。オウムの破防法議論の時もそうだった。街行く市民にインタビューし、「盗聴法が成立すれば恐ろしい管理社会になる」といった不安の声だけを選んで放送する。キャスターに盗聴法の恐ろしさを語らせる。盗聴法に反対の知識人だけを出演させる。「盗聴によって組織犯罪が減るなら結構じゃないですか」といった声は流さない。こうして世論全体が盗聴法に反対であるかのような印象を与えようと必死である。  つづき

 そもそもプライバシーとは何か。それを侵害するとはどういうことか。常々抱いている疑問だが、よくわからない。プライバシー、実は誰もその正体を知らないのではないか。マスコミはいつも「プライバシーの侵害」という具体性のない表現で不安をあおり、視聴者は皆わかったような顔をしている。

 警察に電話を盗聴されるとなぜ困るのか、さっぱりわからない。具体的に誰がどういうふうに困るのか説明してもらいたい。少なくともボクは少しも困らない。

 現実に携帯電話の電波は盗聴し放題、盗聴マニアには筒抜けだと言われている。それで困った人はあまりいないだろう。まして盗聴するのがマニアや犯罪者ではなく警察ならもっと安心だろう。

 警察に聞かれていると思うとおちおち電話もできないという人がいる。一体どういう人なのだろう。警察にバレて困るようなことをしていなければビクビクする必要は何もないはず。

 警察が盗聴するためには裁判所の令状を取る必要があり、NTT職員の立ち会いが必要であり、捜査できる事件は薬物、銃器、集団密航、組織的殺人に関わるものに限定されるという。少なくとも個人の電話を自由に盗聴できるようにはなっていない。第一、四六時中市民の会話を盗聴するほど警察も暇ではないだろう。

 そもそも警察は市民を監視するためにある。それがいけないというなら交番制度も検問もパトロールも職務質問もやめちまえ。本当に犯罪を防ぎたいのなら警察が監視しやすい体制を作るべきだ。

 恐ろしい管理社会になるというが、管理社会の認識もボクとは随分ちがう。管理社会といってボクが思い浮かぶのは、宴会だ慰安旅行だと個人の思想の自由を束縛し、組織に忠実なロボット社員を作り、しかも社員は管理されていることにも気づかない日本のサラリーマン社会だ。こういうのを恐ろしい管理社会というのだ。

 ボクに言わせれば、宗教団体、政治団体、テロ集団、暴力団といった組織が監視もされず野放しになっている方が盗聴よりよほど恐ろしいのである。

 盗聴法なんて少しもこわくない。どんどんやれ。


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