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  ほぼ世捨て人/1999年11月

危険でない宗教はない

  〜 宗教を理解するためのABC 〜

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 宗教ってどんなものか。大衆もマスコミも徹底的に誤解している。宗教の怖さはよく知っているので、今回は伏せ字でいく。

 宗教がらみの事件はしばしば三面記事に登場する。子供の輸血拒否、遺体放置、信者の監禁・暴行・リンチ殺人、巨額のお布施、祈とう、ニセ診療、霊感商法…、犯罪のオンパレードである。

 記憶に新しいのが4年前日本中を騒然とさせたA教事件。新興宗教としては最も成功した例である。サリンのプラントは完成しており、量産体制は整いつつあった。もう一歩というところで焦ってしくじっただけだ。強制捜査が1年遅れていたら日本はどうなっていたかわからない。

 宗教団体があんなことをするなんて、と人は言う。

「宗教はもともと世のため人のためにあるもの。危険なのはA教のような一部のカルト集団だけ。宗教がみな危険なものだと考えるのは誤解です。」

 こういう考えこそ誤解である。宗教とは人をだますか殺すかのどちらか(あるいは両方)であり、どちらもやらないものを宗教とは呼ばない。特に新興宗教や分派した教団ほど本来の毒を持っている。多くの宗教では異教徒を殺すのは神の御心にかなったごく普通のことである。対立する者を“ポア”するのはA教の専売特許ではない。どんな宗派の人もみんな仲良く、という方があり得ないのである。

 A教は宗教の風上にもおけないインチキ宗教であり、宗教団体の衣を着た犯罪者集団だと世間は言うが、とんでもない。A教こそ久々に現れた宗教本来の姿をしたホンモノの宗教である。

 Aウォッチャーたちの宗教に対する認識も非常に甘かった。ウォッチャーは弁護士、ジャーナリスト、宗教学者などであり、全共闘世代であり、エリートだから、「宗教は危険なものだ」とか「信仰の自由に反対」などと言うわけもない。特に「信者はみなまじめな人たちだ」とやったのはいけなかった。ウォッチャーの中で唯一正しい認識を示したのは検察出身の河上和雄氏のみだ。彼は「宗教とはもともと狂気の沙汰である」と明言している。  つづき

 いま世界中で信仰されているC教も、発生当時は異端であり、当時の社会にとっては危険な思想だった。予言者(教祖)Jは民衆の反発をくらい、人心を惑わしたかどで死刑になった。「あれは不当な裁判、宗教弾圧だった」というのはもちろん後世の歪曲である。

 新約聖書を読むとC教のカルト性の片りんがうかがえる。信者・ユダが裏切った話がある。裏切るという言葉がおよそ宗教にふさわしくないように見えるが、裏切り者を異常に恐れるのは多くのカルト教団に見られる現象だ。社会とのあつれきが深まり、捜査当局に追いつめられれば、教祖は疑心暗鬼になり、信者を疑うようになる。

 ユダが密告したためJは囚われた。これはA教ふうに言えば、「教団内に公安のスパイがいたので尊師が逮捕された」と解せる。新約聖書は、教団と捜査当局のにらみ合い、脱会信者による通報、強制捜査&逮捕、裁判、死刑執行という一連の出来事を描いているのである。

 Jの死後、C教は信者の布教活動によって教義が変わり、毒が抜け、今では平和的な愛の宗教になった(一部の狂信派は今でも人を殺す)。今の教義を教祖Jが聞いたらさぞや驚くにちがいない。

 そういう意味でA教の教祖Aも百年後に神様に祭り上げられる可能性は否定できない。後に「時の権力により死刑になった、宗教弾圧だった」とシナリオを書き換えることは簡単だ。後世の民衆は当事者じゃないので、無責任に信じたい方を信じる。

 新興宗教ほど純粋に過激な姿をとどめているもの。しかし、教祖が死ぬと「世のため人のため」を本気で信じる信者が増えてくる。今、われわれが見ている大宗教のC教は、発生当時の毒が抜けた抜け殻のようなものである。

 今は教祖にとっていい時代だ。みんな一つ覚えで「信仰の自由」を唱える。信仰の自由は教祖にとって強力な武器であり、水戸黄門の印篭のようなもの。これを突きつければ警察さえ手出しができない。法学者や有識者、市民団体も味方してくれる。Jが聞いたら涙を流すようなありがたい時代である。

 世のため人のためといって人を殺すのが本来の宗教。今後、A教よりもっと危険な教団が出てくる可能性がある。世間がA教事件から教訓を学んでいないのが心配だ。


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