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  ほぼ世捨て人/2001年11月

何のために働くのか(1)

  〜 あやまった労働観を正す 〜

ほぼ世捨て人もくじ


 日本人の仕事に対する考え方は承服しがたいものがある。11月23日は勤労感謝の日。この機会にボクの労働観をぶちまけて、世間の誤った(?)認識を正しておきたい。

 ボクは労働を人生最大のムダだと思っている。人が一生のうちに仕事で失う時間とエネルギーたるや大変なものである。わずか80年という貴重な持ち時間にやりたいことがたくさんあるのに、仕事ごときに毎日8時間もつぶすのは実にもったいない。

 仕事は人生の目的ではなく手段であり、必要悪である。必要がなければ働かない。経済上まったく働かないわけにはいかないので、必要最低限しか働かないという基本方針で生きてきた。

● 勤労は美徳?

 ボクは働くことを軽蔑している。恥ずかしいこと、みっともないことだと思っている。日本には勤労がいいことだという根強い信仰があるが、働くとは限られたお金を奪い合う行為なのだからいいことなわけがない。だから働くなと言っているのではない。もう少し恥ずかしそうに働けと言いたいのである。

 働きたくないというのは正常な感覚であり、働きたいという方が異常であり不自然なことである。「勤労は美徳」という価値観は決して万国共通ではない。

 勤労が貴いのは懸命に働かなければ生きていけない温帯や寒帯の価値観である。食糧を確保して生き延びるためには、せっせと木の実を拾い集めて貯蔵し、穀物を栽培し、動物を巧みに追い、家畜を移動して遊牧しなければならない。過酷な自然をしのぐために家や衣服を作り、暦に従って行動しなければならない。冬に備えて余分な食糧を獲って保存食を作らねばならない。アリとキリギリスのアリである。知恵を使って効率よく働き、片時も休んではいられない。そうしなければ生きていけないから勤労は貴いのである。

 そんなことをしなくても食べるものに困らない南国や熱帯、南太平洋の人々にとって勤労はあまり意味がない。暑い日中は木陰で昼寝をしたりおしゃべりに興じ、涼しい時間にちょっとだけ働く。残りの時間は酒と恋と音楽を楽しむ。あくせく働くのは守銭奴だけで、勤勉は軽蔑の対象になりうる。自然の恵みが豊かで食べ物は常にそこにあるから、余分に採って保存する必要もない。  つづき

 童話のキリギリスは冬になると食べ物がなくなって困ったが、冬がないとなれば話は別だ。必要がなければ働かないのは人間として自然なことなのである。

 おっと、ここは南の島じゃなかったか。

● 経済的側面

 生産工程が機械化され、情報がコンピュータ化され、文明国の仕事はずいぶん効率アップしたはずなのに、人は相変わらず1日8時間ないし10時間も働いている。欲望が増大したからである。物欲を刺激する商品やサービスがちまたにあふれ、それらを手に入れるために人は余分な労働をするようになった。

 仕事の奴隷にならないためには欲望を抑えるのが一番手っ取り早い。ボクが徹底して倹約生活をするのも、人生なるべく働かずにすませたいからである。働いて稼いだお金をホイホイ浪費するなら死ぬまで働き続けるしかない。

 世間の男性サラリーマンは、高価なクルマを買い、妻を買い、子供を買った上、30年ローンで分不相応な家を建て、子供にふんだんに教育費をつぎ込む。これでは自ら志願して会社の奴隷になるようなもの。高価なマイホームを建てたところで寝るために帰るだけ。長距離通勤、長時間残業のせいでくつろげる時間がなく、家族と食事もできない。それでも自分は中流だと思っている。この異常な感覚は何なのだろうか。

 「働くとはハタをラクにすることです」とのたまう人がいるが、アホかと思う。働くロボット、男とはなんて情けない動物だろう。

 ボクにとって働くことはやりたいことをやるための資金稼ぎでしかない。老後の生活のめどがついたらさっさとリタイヤするつもりである。実は50歳で(あと数年)引退するつもりで少しずつ準備を進めている。大橋巨泉や上岡龍太郎のような生き方を全面的に支持する。むろん彼らとは経済的スケールが違うが。

<続く>

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