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  ほぼ世捨て人/2003年11月

みんなにあげるな選挙権

  〜 投票に行かない理由 〜

ほぼ世捨て人もくじ


● 一票の軽さ

 今日は衆議院議員選挙の投票日だという。国政選挙、市会議員選挙、選挙もいろいろあるが、人生45年、一度も投票に行ったことがない。今後も行くつもりはない。「行かないかもしれない」とか「用事がなければ行く」というのではない。誇りを持って行かないのである。

 わが家にも時々選管から投票通知のハガキが来るが、そのままクズかごへポイだ。貼り合わせを開いて見ることもない。

 投票に行かない理由は、政治的問題というより主に数学的確率の問題である。

 投票する人は同じ選挙区に何万人といるのである。自分の1票で当選者が変わる確率は天文学的に小さい。宝くじに当たる確率より遥かに低いのである(ボクは宝くじだって一切買わないんだから)。百歩譲って自分の1票で運よく当選者が一人変わったとして、それによって政治が変わる可能性はさらにナイ。

 そんなゼロに近い確率を信じて貴重な休日を1分たりともムダにしたくない。もっとも有権者が100人しかいないというなら勇んで投票に行くがね。

 「自分の一票で政治を変えるために投票する」と本気で思っている人がいたら、失礼だがよほど確率計算のできない人であろう。

 「この一票で政治が変わる」と考えるのは一種の信仰か妄想である。投票は確率的にはほとんど意味のない行為である。ただし、みんながボクと同じ認識に立てば話は変わってくるが。

 「投票したい候補者がいなくても、白紙でもいいから投票すべきだ」という人がいるが、これはさらに意味がない。単なる形式主義であり、ナンセンス。棄権する人が全員白票を投じたとしても世の中何も変わらない。

 全員が投票しなければいけないという発想がそもそも古い。これはギリシャの直接民主制を引きずった考えである。統計学の教えるところによれば、選挙のサンプルは有権者の1%(任意抽出)でも十分正確な結果が得られる。現在の投票率は50%前後もあり、多すぎるくらいである。テレビの視聴率なんか数百万世帯の動向をわずか数百世帯のサンプルで測定しているのである。

 選挙の問題の一つは、投票する50%がやや偏ったサンプルであるという点だ。投票に行く人と棄権する人では政治に対する考え方がちがうからだ。

「そりゃそうだ、投票に行かない奴は政治に無関心なんだろ?」

 コトはそれほど単純ではない。が、とにかく偏りのある50%より偏りのない1%のサンプルの方が正確だということ。

 それでも今の選挙でもそこそこ正確な結果が出る。支持政党の世論調査とほぼ一致するからだ。仮に棄権ゼロ、全員が投票したとしても当確はまず変わらない。みんなが投票すれば政治が変わるかのように言う人がいるが、これはまちがい。投票率はカンケイないのだ。

● 有権者の知的レベル

 政治に無関心はよくないと棄権を戒める人がいる。じゃあ何か、投票に行く人は政治に関心があって政治がわかっているとでも言うのか。もうそうならこれほどの政治腐敗はなかったはず。

 悪いのは政治家ではない、そやつに1票を入れた有権者である。ボクは現政権を握っているウゾウムゾウたちに投票した覚えはないので、政治腐敗には少しも責任を感じていない。投票した有権者の見識こそ疑われるべきだ。それをなぜか「投票しなかった人が悪い」とする珍説がまかり通っている。  つづき

 有権者の知性、政治センスがどの程度のものか、選挙運動を見ればわかる。候補者は政策論議そっちのけ、選挙カーと拡声器でひたすら名前を連呼して有権者の脳ミソに刷り込む。現代版チンドン屋である。ひたすらよろしくお願いします、がんばっております、と叫んで回る。ガラガラ声を作って美辞麗句の演説。雨が降ってもわざと傘をささない。普段はクルマしか乗らないのにわざわざ自転車で回ってみせる。

 こんな見えすいたパフォーマンスで国民がだまされると思っているのか。恥を知れ。有権者はそれほどバカじゃないぞ! と思ったら有権者はバカだった。こういうパフォーマンスをした者だけが当選するのである。有権者はいくらでもだまされる。選挙は拡声器の音量と名前連呼の回数で決まるのだ。恥を知るべきは有権者のほうだ。候補者は有権者のレベルに合わせた選挙運動をしているにすぎない。選挙とは脳への名前刷りこみの結果でしかないとわかる。その程度の感覚で投票する者がシタリ顔で「政治に無関心はよくない」とか「棄権するのは無責任」などとのたまっている。

 政治をよくしたければ有権者がもっとかしこくならなければいけない。かしこくない人には選挙権を与えてはいけない。どういう人がかしこくないかというと、特にオバさん、ジイさん、バアさんがいけない。この人たちは簡単にだまされる。ああいうパフォーマンスで「この候補者はよくやっている」、「握手してくれたから庶民的な人だ」と評価するのである。

 参政権は時代とともに拡大してきた。大昔、選挙権は一部の金持ちの男しか持っていなかった。それが庶民に降り、女にまで与えられるようになった。これはいいことなのだろうか。ボクは反対である。

 「オバさん・ジイさん・バアさん」追放案。まず専業主婦に選挙権を与えるべきではない。社会の勤労に従事しない、税金も払わない大人に政治を左右する資格はないだろう。また、投票年齢に上限を設けてモウロクした老人を締め出そう。ヒマな老人が単なる習慣で何も考えずに同じ政党に投票し続ける、こういうのが一番困るのである。

 精神病、麻薬などで正常な判断力を失った狂人・病人にまで選挙権が与えられているのもおかしい。

 愚かな一般大衆にあまねく選挙権を与えることが民主主義だとすると、民主政治は衆愚政治と同義になってしまう。血液型占いや超能力や霊の存在を信じている人にもボクと同じ一票が与えられているのである。あーいやだいやだ、そんな行事には絶対に参加したくない。

 選挙制度最大の問題点は、棄権することよりも棄権しないことにある。みんなが投票するなんてまちがいなのだ。無党派層や若者の政治離れを云々するが、無関心だから棄権するというなら何も害はない。無関心で何もわかっていないくせに投票に行くから困るのである。

 政治に関心もない、主張もない、政策も知らない人が投票に行くのは無責任な行為だとハッキリ言おうではないか(ボクなんかそんな無責任なことは一度もしたことないぞ)。選挙はよく考え、よくわかった者だけが投票すればいいのである。よくわかった者が有権者の50%もいるわけがない。投票するのは5%か10%で充分。その他の人には「棄権」という選択肢が用意されている。

 「みなさん、棄権せずに投票に行きましょう」というのは大まちがい。「関心のない人は棄権しましょう」というのが正しい選挙のあり方である。

 「ちょっと待て、その一票が日本をダメにする。」

【投票】 投票所へ行き、候補者の中で一番よく耳に残っている名前を書いてくること。<AZMAの辞典>


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