クリスマスシーズンになると街にきれいなイルミネーションが灯る。最近は個人でもツリーの電飾をチカチカさせて目立とうとする家が増えた。
クリスマスイブの前日は天皇誕生日だ。キリストと天皇、アメリカの守護神と日本の守護神。第二次大戦のカタキ同士である。今や1日ちがいで誕生を祝うというハチャメチャぶり。しかも敵国の神の方がはるかにハデに祝福されている。でもこれでいいのだ。これが日本人の選択なら。
“清しこの夜”からわずか1週間、お寺の除夜の鐘を聞き、日付が変わるや神社へ初詣で。キリスト教から仏教、神道へ。日本の年末年始はめまぐるしい。最近はさらにバレンタインデーだ、ハロウィーンだと西欧かぶれが著しい。和洋中華なんでもござれだ。
ボクは宗教を一切信じないのでクリスマスも初詣でもお盆も関係ないが、信じない自由を確保するにはこの多様性が大切なのである。
● アメリカが多様性を奪う?
昨今の反米ブームで、大衆がアメリカ文化を批判し始めた。髪を茶色に染め、浦安ディズニーランドを絶賛するような人たちが、マックバーガーをほおばりながら「アメリカ文化を押しつけるな」と言っている。随分笑わせてくれるじゃないか。所詮は大衆だ、しょうがないか。
しょうがないと済まされないのが知識人だ。アメリカがアフガンやイラクの独裁政権を倒したことに対して、テレビのキャスター、評論家、コメンテーター…と称する連中がこんなことを言う。
「アメリカは自国の論理を押しつけている。各国の多様性を認めるべきだ。」
このコメントに誰も反発を感じないのだろうか。ボクなどはびっくりしてひっくり返りそうになる。アメリカが多様性を奪っているというのである。
では聞くが、日本が戦後アメリカの同盟国に下ったことで日本人の多様性のどこが失われたというのか。
戦後の日本はアメリカ産の牛肉ステーキを食うのも自由、寿司やうどんを食うのも自由。ハリウッド映画を観るのも、つまらない寅さんの映画を観るのも自由。キリスト教の洗礼を受けるのも、天皇陛下万歳と叫ぶのも自由。服装も、着物に草履でも、TシャツにジーンズでもOK。言論も随分自由になった。自衛官がテレビで「イラクに行きたくない」と答えるのも自由だ(戦前・戦中なら考えられないことだ)。
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アメリカのおかげで日本人の多様性は何千倍にも増えたのである。その多様性をなぜイラク人にもあげようと思わないのだろう。
● 知識人のいう多様性とは…
つまりこういうことだ。イラク人はアラーを信じてフセインの圧政に苦しんでおればよい。インド人はターバンを巻いてカースト制に縛られていればよい。朝鮮人はチマチョゴリを着てキムチを食っていればよい…。この程度の認識なのだろう。日本人はチョンマゲを結って刀をさしているというのと大差ないのである。
アメリカの“押しつけ”に反発し、各国の文化を尊重せよという知識人たち。さぞや日本の伝統・習慣を大切にしていることだろう。
食事は和食オンリー、和室に畳の生活。まさかフローリングの床でベッドに寝てるなんてことはないだろうな。結婚式はもちろん神前で文金高島田。ウェディングドレスを着て教会で挙式なんて非国民なまねは絶対にしない。音楽は当然、雅楽、民謡、小唄、長唄、歌謡曲…。まさかロック、ジャズ、クラシックといった敵性音楽は聴いてないだろうね。娯楽は当然日本映画、歌舞伎、能、狂言、落語だ。ポテトチップスを食いながらディズニー映画なんか観てたら承知しないぞ。
● 多様性とは選択できること
自主的な政権づくりを助けて「自由におやりなさい」というのがアメリカの政策。これを知識人は「自由の押しつけ」だという。押しつけられないことを自由というのだから自己矛盾である。
和服、和食、祭り、法事、歌舞伎…といった伝統文化は確かにフェードアウトしつつあるが、それもすべて日本人が選択した結果。アメリカが文化を押しつけたり日本の神道に口を出したことはない。アナタがマックのハンバーグを食うのはアメリカの命令じゃないはず。
北朝鮮という国を見るにつけ、アメリカの同盟国になった日本や韓国はつくづく幸せだと思う。独裁、弾圧、不自由、貧困…、日本もアメリカに解放してもらわなければああなっていた。それを知識人は“各国の多様性”と呼ぶ。こういう発想にはついていけない。韓国と北朝鮮、同じ朝鮮人でどちらが多様性のある生活をしているか一目瞭然だろう。
個人の選択肢が最も広い国がアメリカ。だからボクはアメリカを徹底して擁護する。
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