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  ほぼ世捨て人/2004年11月

責任者不在の社会

  〜 責任と権限はペアで存在する 〜

ほぼ世捨て人もくじ


 日本では責任とか権利といった概念がいまだに根づいてないなと思う。欧米からの受け売りでまだ日の浅い概念だからか。責任という言葉一つとっても、使い方がメチャクチャなのでそうわかる。

 権限は持ちたがるが責任は持ちたがらないのが人の常。しかし、責任と権限(あるいは権利)は表裏一体のもの。権限を持つ者が責任を負うのである。日本では責任や権限の所在が実に曖昧である。ビジネス社会にいた頃はこの曖昧さに悩まされたものだ。

 会社では下っ端の社員が期限内に仕事が終わらないと「無責任だ」と叱られる。本来、権限を持たない人間が責任を負うということはありえないわけで、随分デタラメな責任論である。この場合、無茶な計画を立てた上司に責任がある。

 高校野球に見られる連帯責任。生徒の不祥事の責任は、本人の他に親、教師、校長といった大人が負うべきものだ。みんなで責任を負うというのはだれも責任を取らないのと同じこと。日本独特の無責任システムである。

 日本の会社でやたらにムダな会議が多いのは、担当者に裁量権が与えられていないからだ。みんなで雁首そろえて相談し、決めた事には全員が従うことが要求される。「みんなで決めたことだから」という意味不明なルールである。そしてその結果にはだれも責任を負わない。つまり会議はだれも責任を負わないための手続きとして必要なのである。

 だれかに責任ある仕事を任せるときは、それに見合った権限も与えなくてはいけない。プロジェクトチームのリーダーに若い人を抜擢するのはいいが、権限を与えないとメンバーが言うことを聞かないので苦労するはめになる。人は権限を与えられて初めてリーダーたりうるのである。

 日本の組織は、一般に担当者に権限がなさすぎる。たとえば日本の企業とアメリカの企業がビジネス交渉に臨むとする。席上で日本人担当者がよく「その件は会社に持ち帰って検討します」というので、アメリカ側がカンカンに怒る。なぜ決定権を持った人間が交渉に来ないのかと。  つづき

 アメリカでは交渉に臨む担当者は自分で判断、決定する権限が与えられているのが普通である。対して日本の担当者は単に会社の意向を伝える使いであり、メッセンジャーに過ぎないのである。

 担当者に権限がないのは北朝鮮の高官も同じ。日朝交渉にのぞむ高官は金正日のロボットであり、裁量権がない。だから金正日の出席しない協議に大きな進展は期待できないのである。

 責任と権限(権利)は常にペアで存在するという原則はいろいろな場面に見られる。子供が不祥事を起こすと親が責任を負う理由は、親が「子供の親権」という権利を有するからだと言える。

 今年起きたイラク人質事件では「自己責任」という言葉が流行った。被害者であるはずの人質になぜ自己責任が生じたかといえば、外務省の勧告を無視して「自由に渡航する権利」を行使したからだ。

 自己責任とは“自分の責任で”やれということ。英語では at your own risk という。「危険につき入るべからず」は Enter at your own risk. だ。

 刑事責任というのがある。現在の司法では心神耗弱(こうじゃく)者やキ○ガイは人を殺しても刑事責任が問えないことになっている。これはおかしいとボクなどがしょっちゅう噛みついているが、その理由。狂人にも健常者と同じ人権がすべて認められているのだから責任も等しく負うべきで、責任を負わないなら権利も制限すべきだと考えるからだ。

 「政治腐敗はだれのせいだ。責任者出て来い!」といってマスコミも大衆も政治家の責任にするが、これも妙だ。主権在民、この場合の責任者は選挙権を行使した国民である、というのがボクの見方。だからいつも国民を、大衆をバカにしているわけだ。


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