ほぼ世捨て人/2005年6月 世界が100人の村だったら 〜 日本人は幸せか不幸か 〜 |
「世界がもし100人の村だったら」という話がはやった。英語圏で広まっていた文章が翻訳され、日本でもチェーンメールなどを通じて流行。これをネタにした本がベストセラーになった。 データの信ぴょう性はともかく、ざっと内容を紹介する。 世界の人口を100人に置き換えると、「100人の村」の構成はこうなる。 57人がアジア人 70人が有色人種 11人が同性愛者 ボク自身はマイノリティだと思っていたが、意外にメジャーな人間だとわかる。 6人が全世界の富の59%を所有し 70人は文字が読めない 1人は大学の教育を受け こうなると、かなりマイノリティになる。パソコン使いのボクやアナタは地球村でただ一人の変人だ。 99人はまだパソコンを持っていない。ビル・ゲイツには無限のビジネス・チャンスがあるってことやね。 もし冷蔵庫に食料があり、着る服があり、頭の上に屋根があり、寝る場所があるなら、あなたは世界の75%の人たちより裕福で恵まれています。 もし銀行に預金があり、財布にお金があり、家のどこかに小銭が入った入れ物があるなら、あなたは世界で最も裕福な上位8%のうちの一人です。 で、だからどうなのよ。この話の結論はナニか。 だからこの社会に生きるわれわれは恵まれています。日本は地上の楽園、日本人は幸せなのです。…というのがこのストーリーのメッセージなのだろう。 「世界がもし100人の村だったら」、長いのでセカヒャクと略すが、テーマといい、結論といい、いかにも左翼好みのメルヘンチックな内容で、ボクの好みではない。 同じセカヒャクを読んでも、ボクはかなりちがった感想を持つ。 |
学校がない。読み書きの教育が受けられない。学びたくても学べない。だからかわいそうだというのだろうか。 遊びたい盛りの子供が学校に缶詰にされ、夜は塾に通い、家に帰れば宿題。勉強漬けの日本の子供とどっちが不幸なのか。 読み書きを習い、せっせと学問を詰め込むのは文化国家の都合であり、競争社会の宿命。根源的な幸せとは何の関係もない。 人生で最も楽しい青春の一時期を受験勉強に費やす不幸な人は、「100人の村」に1人しかいなかった! パソコンの取説と格闘したり、OAストレスやドライアイに悩まされる人は極めて小数派なのだ。 栄養失調に苦しむ人が50人? 貧しき者は幸いなり。彼らは満員電車、ストレス、出世競争、過労死などとは無縁の存在でいられるのだから。目の前にある時間はすべて彼らのものだ。 日本の勤労者は、通勤時間を含めて一日10〜12時間拘束されている。8時間寝ることができない、食事に10分以上かけられない、散歩したりぼうっとする時間がない人がたくさんいるのだ。 餓えた50人の中に、年間2,000時間働いている人は何人いる? 組織の歯車として使われ、ストレスでノイローゼになる人、自殺する人は何人いる? 冷蔵庫の食料は、そういう労働と引き換えに得たものだ。 銀行にお金があるのは、お金がないと生きられない社会だから。日本で現金収入がなくても生きられるのは、親からもらった土地と家があって食い物に困らない農家ぐらいのもの。 日本の勤労者は朝早く家を出て、夜中まで働いて、家族と一緒に夕食もとれない。帰宅しても子供の寝顔しか見られない。そういう人は地球村に何人いるかナ。 一方、世界には狩猟や採集を中心に、石器時代とさほど変わらぬ生活様式の人たちがたくさんいる。文字もお金も服も必要としない人たちがいる。彼らを文明社会の基準に当てはめて貧乏人呼ばわりするのは正しい見方なのかネ。 餓えや貧困の主な原因は子だくさんにある。一方で、1.3人しか育てる余裕のないあわただしい日本社会。日本人のほうが裕福なのは明らかだが、どっちが幸せかはそう簡単に決められないはず。 “他人の不幸”探しもいいが、日本人は自分の足元の不幸に気づいてないんじゃないか。 それよりもセカヒャク最大のツッコミどころは、「100人の村」に11人もホモがいること、じゃない? |