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  ほぼ世捨て人/2002年2月

職業選択の不自由(2)

  〜 ボクの職業遍歴、SE編 〜

ほぼ世捨て人もくじ


 24歳で小さなソフトウエアハウスに就職。ソフト開発は地味で細かくて理論的な緻密さを要求される作業である。派手さはないが、ボクに向いた作業だった。

 が、作業には向いていても、元来組織に向かない人間である。周りはみな会社人間、仕事人間。養鶏所のニワトリのように画一的で、子ヒツジのように組織に従順な連中ばかりだから、常に疎外感があってストレスがたまった。

 何より気に入らなかったのは残業が多いこと。趣味人としてこれだけはガマンならなかった。人手不足ゆえ、残業は月50時間ぐらいは当たり前。ボクはさっさと仕事を片づけて1分でも早く帰りたい人間。周りは仕事がなくても残業するような連中が多く、ボクとは根本的に生き方が違った。

 コンピュータを一生の仕事にするつもりはハナからない。入社したときからいつ辞めようか、辞めてどうしようか、本当にやりたい仕事はないか、そればかり考えていた。通勤途中、新宿地下街に寝そべる浮浪者を横目で見ながら、自分も浮浪者のようなもんだなと思った。ネクタイをした浮浪者である。

 2年目、社内の配属が変わり、新しい課長(といってもまだ28歳)と仕事のやり方が合わず、丸2年で退社。ボクとしてはほぼ予測した結末である。

 時に26歳。仕事にも組織にも疲れたのでしばらくブラブラしようと思っていた。が、まだ正式に退社しないうちに社長からフリーで仕事をやらないかと勧められた。辞める会社から仕事をもらうなんていやだったが、といって新しい仕事を探すのもめんどくさい。なにしろ仕事はアルバイトの延長としか考えてないから、目の前に仕事があればそれをやるが、いい会社、いい仕事を求めて探し回るなんて気は全然ない。それでいやいやながら引き受けた。

 こうしてフリーランスのSE(システムエンジニア)になった。最初から独立してフリーでやろうと目論んだわけではない。行きがかり上、フリーという立場が勝手に転がり込んできた。ボクは職業選択に関しては実にいい加減で主体性がないのである。

 以後5年間半、主にこの会社と業務請負契約し、大手コンピュータ会社などに出向してシステム開発に従事することになる。

 SEというと一日中端末に向かってキーを叩いているイメージがあるかもしれないが、実際はそうではない。仕事の半分はシステム設計のためユーザとの打ち合わせ、調査、協議、すりあわせなどに費やされる。一つの業務の開発期間を6ヵ月とすると、その半分は毎日のように会議の連続。残り半分の期間で詳細設計を書き、プログラムを作るといったところ。経験が長くなるほど打ち合わせの割合が増える。コンピュータ相手というより人間相手の部分が多く、神経を使うのである。  つづき

 バブルの頃で仕事はいくらでもあり、複数の依頼をかけ持ちでやれば月100万円ぐらいは稼げただろうが、そこまでやるつもりは全くなかった。お金より時間が欲しかった。

 ヘッドハンティングの話が2、3来たことがあるが、こちとらアルバイトのつもりだから高待遇とスキルアップを求めて会社を渡り歩くなんて気はさらさらない。勤務環境が変わるのがめんどくさいので、どんな移籍話もその場で断った。

 最後に出向した銀行では不当に大量の仕事をさせられた。朝6時台に家を出て、帰るのが毎晩11時半という生活。それだけ残業しても仕事はどんどん遅れていく。

 この業界の標準仕事量(ひと月プログラム700行)を無視して1.5倍、2倍の仕事が流れた。そういうやり方に抗議もしたが、一向にラチが明かない。それでSEを辞めた。

 …と簡単に書いたが、簡単に辞められるわけもなく、もめにもめた。引き継ぐ人間がいなかったからだ。レベルの高い業務だったので、その辺にいるSEやプログラマを連れてきても役に立たない。といって優秀なエンジニアが手持ち無沙汰で余っているわけもない。なかなか後任が決まらず、こっちも後任が決まるまで待ってもいられない。「辞める」「辞めるな」ですったもんだの末、辞めたときにはボロボロになった。

 日本の組織の体質に完全に愛想が尽きた。企業戦士は企業の論理を振り回すロボットのような煮ても焼いても食えない連中だ。金輪際ビジネスマンにはなるまいと思った。スーツもネクタイもこのとき捨てた。その代わり人生どんなぜいたくも喜んで諦める覚悟があった。

 ビジネスの世界にいたこの数年間がボクの人生で最悪の時期だった。

 SEをやっていた28歳頃から百姓になろうとたくらんでいた。組織で働くのはもう懲り懲り、人を使ったり人に使われたりしない仕事がしたかった。このことは別のコラム「百姓をめざした頃」に書いたので詳しくは書かない。

 ただ、百姓になるには障害も多かった。将来性はない、収入は低い、一人では手が足りない、農村に入るわずらわしさ。農地の取得に数百万円の元手が必要なのも大きなネックだった。

 コンピュータを辞めてやっと自由になった。マンションを引き払って、自転車で日本一周の旅に出た。30歳のこと。

 1年余り旅をしながら、これからどんな仕事をしようかと考えた。

<続く>

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